プロフィール

大きな音や他人の感情に敏感な幼少期                   ~不機嫌な人が怖い~

私の人生は、父母の長子、祖父母の初孫として生を受けたことで、多くの人に祝福されるところから始まった。

大きな家に曾祖父母とも同居していたので、周りには温かい目と手がたくさんあった。

最初こそ大人に囲まれていたが、有り難いことに子分もすぐにできた。年子の妹だ。

妹が母のお腹に宿った1歳過ぎには、私は必然的に、近所で自営をしていた祖父母や同居していた曾祖父母、そして祖父母の会社の従業員の方々と一緒に過ごす時間も多くなった。

皆さん優しかったし、相手をしてもらったり、声をかけてもらったりと、なにかと可愛がってもらいながら、多くの目に見守られた、ある意味とても贅沢な時間。

ところが、それだけ見守られていても、寂しさや孤独、なんてものを感じていたのだから不思議なものだ。

母から「おばあちゃんところへ行っておいでよ」「あなたはおばあちゃん子だからね」と言われるようになると(わたしはおかあさんがいいんだけどな、いきたくないな)と思いながら玄関に立っていたことを思い出す。

もちろん、うまく言葉にできるような年齢ではなかったので、グズグズして抵抗すると、母の困ったような顔と徐々にイライラしたような声色、「お菓子買ってもらえるよ?」「ジュースも買ってもらえるかな」なんていう釣り文句に、もはや結局は行くしかないんだよね、その方がお母さんも嬉しいんだよね、と幼心にもしっかり悟っていた。

そして、たくさんの母ではない大人の中で、なんとか見捨てられずに可愛がってもらうためにも、持ち前の他人の感情を察知して、うまく立ち回る性質が、日に日に磨かれていったのは、今思えば必然だったのかもしれない。

留守番中の薄暗い会社の事務所で、ドアが開く音、大人の仕事中の声、時には仕事上での言い争うような大きな声や、足音、電話の音、そんなものにも敏感に反応してしまう自分が、もうこの頃からいたのを覚えている。

良い子習得期                        ~お姉ちゃんとしての喜びと戸惑い~

弟が生まれ、お姉ちゃんとしての意識がさらに高まるが、母親は同居の曾祖父の介護にも走り回るようになり、長子として頼られることも多くなる。

頼られて役に立つということは、素直にうれしいが、同時に叱られることも増え、甘えたい気持ちもうまく表現できずに心にためてしまうことが多くなった。

母は「よく手伝いもできる良いお姉ちゃんだ」と私にも周囲にも言っていたが、言われれば言われるほど、母を困らせることができなくなっていくような、喉をしめつけられるような、そんな苦しい気持ちが芽生えたのを覚えている。

もちろん母は、祖母にも「良い子だ、良い子だ」と報告するので、私の苦しい気持ちはほとんどどこにも吐き出せずに、幼いながらに愛想笑いと苦笑いを早くに習得していたように思う。

唯一、私をリラックスさせてくれたのは、そんな私の片鱗にいち早く気づいた、ふざけたことばかり言っていた印象の祖父だったことを、今となっては有り難く思い出す。

祖父は長年保護司をしていたので、人の些細な心の動きにとてもよく気づく方だったんだろうと、今となっては尊敬の念しかない。

そんな祖父は、「良い子じゃなくても、あいかはあいかだ」というようなことをよく言ってくれていたが、当時の私にはそれをどう受け止めてよいか、どう自分に当てはめてかみ砕けばよいのか、ちんぷんかんぷんであったような気がする。

ただ、丸々全部を受け止めていてくれた祖父のことは、その当時も、成長してからも、大好きだったことは間違いない。

心が休まらない学校生活                       ~担任の先生が怖くて登校拒否~

小学1年時、期待に胸を膨らませての学校生活のはずだったが、担任の女の先生がとにかく怖くて、ついには学校に足が向かなくなった。

最初は母親に、お腹が痛いと言ってもかわされ、頭が痛いと言ってもうまいことかわされるので、ついには「目が見えない」と言いだしなんとか登校拒否に成功する。

これには周りは大慌て。

なぜなら耳の垂れた犬のぬいぐるみを見て、「うさぎ」と言ったのだから。

眼科に連れて行かれても、もちろん目には異常がない。

精神的なものだろうということで、母はとにかく一生懸命私の話を聞いてくれた。

学校で何がいやだったか。

「担任の女の先生が、母が家で怒るみたいにヒステリーな感じで怒るのが、良い子でいようとしていた私にはとても怖く、いつ怒られるのかと、ビクビクしてしまって気が休まらなかった」というのが主な率直な理由だったが、

その中でも先生に直接言えそうな、「給食を掃除の時間まで残されて食べるのが嫌だった」というようなことは、何日か休んだ後学校に行く際に、先生に直接伝えてくれていたように思う。

「なんで今まで何も言わなかったの?」話を聞きながら母は言ったが、“言わなかった”のではなくて、“言えなかった”と言うのが本当のところだった。

常に忙しそうにしている母に、短時間で簡潔に上手に伝える、というすべを私は持ち合わせていなかったのだ。

そしてそこからは、母から見る私は、「何を考えているかわからない子・過敏な難しい子」そのものになり、何か事あるたびに、というか、何もなくても、意見が違うたびに、そう言われる、理解されにくい困難な人生が幕を開けたのだった。

私って本当に変なのかも?!                       ~自分を抑えることが習慣に~

10歳離れた妹が生まれ、家の中での役割に喜びを得つつも、学校ではHSC気質を全力で発揮。

先生の顔色をうかがうのはもちろんのこと、ビクビクしたり、事あるごとに泣いたり怯えたりと、自分の扱い方に自分でも困惑するようになった。

みんなが怒られているのに、どうして私だけ泣いてしまうのだろう・・・

そんな場面にも何度となく遭遇し、ふがいないような、恥ずかしいような、胸を締め付けられるような瞬間も度々あるようになった。

母親には相変わらず、「あなたのことはよくわからないわ」と言われつづけていたが、この頃になると自分でも、私って本当に変かもしれない・・・そう思うようになり、どんどん自分を抑えるようになっていった。

不思議なことに、抑えれば抑えるほど、困った気質は突如として顔を出し、余計にコントロールが効かなくなっていったのだった。

人間不信と自己不信                      ~他人に振り回され正解がわからない~

中学生になり、複雑化する人間関係の中で、仲間と先生との間で、どうしたらいいのか、自分の立ち位置の選択に戸惑いと不安を覚えたりするようになった。

部活の仲間が決まり事を破っていたときに、自分が注意をしても収まりがきかず、顧問の先生に相談したところ、「そうかそうか。おまえは仲間を売った、スパイか。裏切り者だな」と逆に注意されたときには、どうすれば良かったのか、もはや思考停止のような感覚に陥った。

人をどう信じたら良いか、根本からわからなくなり、正解だろうと思っていたことも(これが正解じゃないのなら何が正解なんだ?!)というような、生きる指針にしていた善悪の基準さえわからなくなったような、なんの心の支えもないような状態になったのは、この頃が初めてだった。

人間不信の方向に確かに向かい始めたのも、この頃がきっかけだったように思う。

ついに不登校に                       ~人が怖い、生き物全般が怖い~

高校2年生になると、所属していたテニス部でなんとしたことか、キャプテンを務めることに。当時2人いた部活顧問の異なる方向性と指示の間に挟まれながら、苦悶する日々が始まる。どちらの顧問の言っていることもよくわかったが、あその部分は本来、直接2人で話し合って解決してほしいことだった。しかしながらそうはいかず、学年主任と入ってきたばかりの新任に近い教師との関係は最悪で、表面上は「従っています」という立場をとる新任教師は、生徒を間に挟みながら、ジリジリと自分の陣地を広げていく姑息な姑息なやり方をした。結果、当時の私は部活に行かなくなり、さらには、顧問の担当学科の授業を欠席するようになり、最終的には、親からの一言で将来の目標も見失ったことが引き金となり、すべてが本当にどうでも良くなり、ついに不登校に。優しい担任が家にまで様子を見に来るも、HSPの気質がより研ぎ澄まされ、人の裏表に勝手に翻弄され、人との付き合い方が完全にわからなくなる。最終的に、人が怖い、生き物全般が怖い、と思うまでに。今思えば、自分の感覚に振り回されることを避け、混乱の中に身を置かないようにと、無意識に自分を守る対処をしていたのかもしれない。たまに学校に行ったり、行事には参加したりと、完全なる引きこもりというわけではなかったが、不登校期間はトータルで1年ちょっとはあったように思う。

 

【精神科・カウンセリング体験時代】

1998年 不登校&引きこもりを心配した親に連れられ、精神科に数回通院。人生初のカウンセリングもそこここで経験した。精神科での薬の処方、箱庭療法などの従来のカウンセリングでの解決の道への不透明さ。クライアント当事者ながら、ただの時間とお金の無駄であると知りビックリする。

【職場転々時代】

20代前半 バイト、パート、契約社員、正社員、様々な立場で、様々な職種につくも、「昇級」や、「正社員」という言葉から、永久に同じ仕事につかないといけないような恐怖に駆られてしまい、ほとんどの職場を半年~1年強ぐらいのスパンで転々とする。仕事での悩みや、お金の悩み、恋愛の悩みなども、全部自分でなんとかしようと悪戦苦闘したため、小さな悩みが大きくなってしまったり、取り返しのつかない状態にまでなってしまったりと、悪循環にはまっていたが、自分では気づけず、今考えれば、沼にはまるところはしっかりはまってしまっていたように思う。職歴は、新聞配達、コンビニの深夜バイト、美容師見習い、一般事務、経理、製造業、飲食業、保険業、呉服店、水商売、講師業などなど、ざっと数えても20回以上は転職し、24種の職業につく。どうして私はこうも1つの仕事にしっかり就くことができないのだろうか・・・と外には平気な顔をしていたが、内心結構悩んでいた時期でもあった。今となっては、この時期に学んだことはとても大きなことで、コミュニケーション能力も徐々に開花していったし、体験したすべてのことは、1つとして無駄なものはなかったと、自信をもって言える。

【自分見つめ時代】

20代後半 自分の取り扱い説明書と人生の方向性をなんとか見つけようと、少しずつだが自分と向き合う時間を増やす。結果、これまた少しずつだが人生が楽しくなり、今の私もなかなか良いと思える日々を過ごし始める。そんな中、そのままの私を寛大にも受け入れてくれた今の夫と、運命的な出会いをし、結婚。すぐに子どもを授かる。人生捨てたものじゃない。この先の人生、きっと幸せに違いない、とすっかり期待に胸を弾ませる。

【出産後のドン底時代】

2013年 結婚出産後、初めての手探り育児の中で、夫とうまくコミュニケーションがとれず、親にも匙を投げられ、息をするのもしんどくなるほどの、悲しみに打ちひしがれる。自分では初めてだらけの新生活をできる限りの努力をして最善を尽くしていたと思っていたのだが、ついには義理の親にも、あなたにも落ち度があると言われ、すっかり絶望し、なんとしたことか自殺未遂をしてしまう。人生の走馬灯が脳裏を駆け巡るほどの生死の境を体験したものの、大事なく息を吹き返したことは、本当に奇跡だったと今では思っている。

【3回の立て続け流産時代】

2014年 そろそろ2人目を授かりたい、と思っているさなか、1年間の間に3回も流産する。医師からは「これといって理由はわからないが、3回続けてとなると、体も心もつらいだろうし、不妊治療をした方がいいと思うよ」と言われる。確かに自分でもヘトヘトになって弱り切っていたのだが、いくつかした検査でも、特に気になるようなものがなかったので、このまま不妊治療に入ったとていかに・・・と思うところもあり、「次こそは自力でちゃんと2人目妊娠します」となんの根拠もないまま宣言して帰ってきてしまう。根拠はなかったが、検査でこれといった異常もなかったので、(まだ何か自分でできることがあるような気がする・・・)そんな感覚があったのも嘘ではない。ただ、全くあてはなかったので、相当しんどかったのは、事実だ。体も心も極限までつらい状態だった。何が悪くてこうなっているのか・・・人様に気軽に言えるような話でもなく、だからといって夫や親、妹など、身内に話したところで、私のつらさを本当に理解して寄り添ってもらえているような気にはならなかった。こんなにつらいのに、誰にも寄り添ってもらえない・・・わかってもらえない・・・大きな喪失感と放心状態で、気づいたら呼吸をしていないような瞬間も幾度となくあった。ところが、人前ではある程度気を張って気丈に振る舞っていないと、すべてが破綻してしまうような気がして、外では笑顔の仮面をつけ、何事もなかったように取り繕う日々。車の中や心が緩んだ瞬間、気づいたら涙があふれてしまうほど苦しがっている本当の自分と、それには目をとめず、関係なく進んでいく日常。どうしても苦しくて泣けて眠れず、夜な夜な公共の電話相談に相談することも1度や2度ではなかった。しかしそれすら何の解決にもならず、ただ同じような日常を繰り返す日々。もう八方塞がりだった。精神面ではほとんど破綻寸前だったが、日常生活はなんとかこなしている・・・そんな感じだった。

【本気で変わりたい!スイッチが始動した】

 

2015年 そんな八方塞がりの鬱々とする日々の中、落ちるところまで落ちた私に、突如スイッチが入った。(このままではダメだ・・・私、本気で変わりたい!)そう心から思い、藁にもすがる思いで、ネットで運命的な出会いをしたカウンセラーさんのもとへ、片道3時間の道中を自らカウンセリングを受けに行った。

 

【人生180度変わった衝撃のカウンセリング】

 

・カウンセラーさんとの初対面は、頭をドーンと殴られたような衝撃だった。カウンセラーさんが何を言われているのか、最初はまったく理解できなかったからだ。言語が違った訳ではない。同じ日本語だ。にもかかわらず、最初の方はすさまじいばかりの拒否反応で、「違います!そうじゃないです」と泣いて訴えた。それが途中から、泣き笑いに変わり、笑い泣きに変わり・・・と。カウンセリング中は、つらい涙、悲しい涙、喜びの涙、うれし涙、とにかく泣いたり笑ったり、そして頭はフル回転・・・と本当に大忙しだった。ところがどうだろう。徐々に頭が追いついてきて、たった2時間あまりのセッションで半信半疑ながらも、(あぁ~よかった~!本当に来てよかった!もうきっと大丈夫だ!会えて良かった!ありがとうございました!!)そう思いながら、清々しい気持ちで帰路についたのを覚えている。帰りの電車では、感謝と喜びの涙が本当にずっと止まらなかった。顔はもちろん久々の心の底からの笑顔だった。人生が180度変わるとは、まさにこのことだと思った。

 

 【本当に現れた100万円】

 

・カウンセリング後は、すぐさま人生が好転していく変化を目の当たりにする日々が始まった。自分の人生の責任は自分にあり、自分の人生の舵も自分が持っているのだとわかり目から鱗が落ちる。カウンセラーさんが言っていた100万円も、本当に目の前に現れた時には、(本当ですか?!本当に100万がきた!!)と全身鳥肌が立って感極まり涙するほど感動した。小さな変化から大きな変化まで、確実に一歩一歩実感していった。

 

 【カウンセリング直後に妊娠】

 

・不妊はどうなったかというと、3回の流産も自分の思考に原因があったと納得し、その直後見事に妊娠。産婦人科の先生方は、とても心配そうにしていたが、私本人は、ビックリするぐらいなんの不安にとらわれることもなく、順調に妊娠期を過ごし、めでたく出産。

 

【出産は特技になりました】

 

・その後も一度も流産することなく、思い通りに2人の子を授かる。その頃には、男女の産み分けも思うがまま、出産すらも思うがまま、自分の望む現実を自分で創造できていると確かに実感する。3人目の出産時に産院で「もう絶対生まれるから(家に帰さないで)」と言ったときは、年配の助産師さんに「それは神のみぞ知ることですよ。あんたは神様か!」と言われたことは、今でも鮮明に覚えている。